三木直頼は郡上出兵の翌1540(天文9)年8月に東美濃(現加茂郡方面)に兵を出し、城を三つ落とした。
寿楽寺大般若経奥書(飛騨下呂史料Ⅱ)巻511に「三木新九郎殿、濃州土岐殿え出頭、東美濃米田嶋城・野上城、同日に城三つ落居(らっきょ)し候(そうら)いて罷(まか)り通られ、隣国の覚え比類なく候間」とある。
新九郎は「飛州志」では直頼の子頼一で「竹原に住」とする。美濃守護土岐氏の要請による侵攻と思われるが、詳細は不明だ。
米田島城は川辺町の米田城とされ、同町の散策マップにも三木氏の攻略伝承を記述。野上城の別名とされる八百津町の和知城は90(天正18)年の築城とされ、もう1城含めて定かではない。岡村守彦さんは「飛騨中世史の研究」に「米田島は中世までの郷名で、かなり広域を指す」と記す。
重要なのは続く記述だ。...