三木家代々の墓と伝わる禅昌寺境内の供養塔=下呂市萩原町中呂

 三木良頼は1572(元亀3)年に病を得る。

 年次欠ながら同年と思われる8月20日付の上杉重臣に宛てたとされる良頼の書状に「越中(富山県)の儀に付き、懇(ねんご)ろに示し給(たま)い本望に候(そうろう)。賀州(石川県)衆出勢の儀候条、良頼事、自身相働くべき覚悟に候といえども、この中相煩い、散々の式に候て、心中に任せず、人数の儀申し付け候。輝盛出馬の事に候間の条、今の分に候わば、指したる儀あるべからず候、時宜においては心易(やす)かるべく候」(富山県史史料編Ⅱ、同書では64年=永禄7年とする)とあり、病のため出陣できないが、江馬輝盛が出陣するので、何とかなるだろうと書き送っている。

 同年9月18日の上杉謙信書状(同)には「昨晩江馬方打ち着かれ候」とあり、江馬輝盛が着陣している。...