三木良頼は一貫して上杉方だったが、1570(元亀元)年には越中・新庄城(富山市)への在番を命じられている。
同年8月10日付で謙信(当時輝虎)が家臣の飛騨取り次ぎ役村上源五(国清)に宛てた書状(「賜廬文庫文書七村上文書」飛騨下呂史料Ⅱ所収)に「先日、申し越される良頼の事、いよいよ違乱無く、居城を明け渡し、新庄へ相移るべきの旨(むね)、相達せらるべく候(そうろう)、良頼、証人として、塩屋筑前守、馬場才右衛門尉、それまで別心なきの通り、罰文(起請文)調え指し越し候。左候わば、替の地として五ケ所出だし置き候、きっと引き渡すべきの事」とある。
命令は居城を明け渡して新庄城へ移り、替え地も五カ所用意しろという、むちゃな内容だ。...