下呂市森の下呂ふるさと歴史記念館2階には三木氏の紹介コーナーがあり、桜洞城跡の発掘調査で出土した陶器や、説明パネル、関連史料の写真などが展示されている。系図も紹介されており、直頼の項には永正年中に桜洞城築城、永正大永頃に馬瀬・阿多野郷攻略と記される。
「岐阜新聞デジタル クーポン」始めました!対象店舗はこちら典拠が「飛州志」の直頼の項で「大和守。桜洞在城也。初名右衛門尉と云(い)う。永正大永の頃、阿多野郷甲(かぶと)の城主東相模守、同甲斐守、其(そ)の外(ほか)、阿多野蔵人、黒川越中守等をことごとく討(う)ちしたがえ、阿多野郷馬瀬郷を押領して益田郡桜洞城に郭を構え、これに居す」とある。
甲も黒川も現高山市朝日町の地名。阿多野郷は同市高根町、朝日町、久々野町の一部にまたがる地域で、下呂市馬瀬地区を合わせた一帯を攻め取ったとする。
父の死後、家督を継いだ直頼の動向は1521(大永元)年、飛騨市古川町太江の寿楽寺所蔵大般若経奥書(巻66)に「三木殿者(は)三仏寺在城候(そうろう)也」と旧高山市北部の三福寺町にあった三仏寺城に居城した記述まで同時代史料はない。
三木氏系譜史料である速入寺(同市石浦町)の「平野速入寺記」にも「永正大永之間、馬瀬郷上櫓(呂)郷阿多野郷討ちしたがえ、桜洞築城」と同様の記述が見られ、2通りある系譜いずれも馬瀬、阿多野郷制圧説を取り入れている。
典拠は17世紀後半に成立したとみられる軍記物「飛騨略記」(「飛州志」成立は18世紀中ごろ)と思われ、弟友則に桜洞城を守らせ、甲村城主東藤相模守親子、黒川越中守、阿多野蔵人らの勇士を屈服させ「郡内は一円に直頼が手に属したり」とある。
高山盆地攻略の間に位置する馬瀬や阿多野郷を従えるのは妥当な記述と思われるが、「飛騨略記」は全体に誤りが多く、史料的価値は低いとされている。父親の勢力範囲、北進の詳細ともに不明だが、父死去の1516(永正13)年からわずか5年での高山制圧は驚くべき速さでの躍進と言える。(森嶋哲也)