三木氏が落城させ、拠点とした古川城。この後に領した金森氏の改修が随所に見られ、ゆかりの蛤石(左)もある=飛騨市古川町高野

 1530(享禄3)年の「古川殿取り退かれ畢(おわ)んぬ」と表現された姉小路古川家の内紛は、いったんは収拾したが、翌年春、再び争乱が起きる。

 同じく飛騨一宮水無神社棟札(飛州志)に「向牛丸与十郎、志野比に籠(こも)り候(そうろう)を、益田衆攻め落とし候。一段高名どもに候き」とあるように姉小路3家の向家家臣・牛丸与十郎が籠城した。

 飛州志の岡村利平解題によると、与十郎の詳細は分からないが、志野比は吉城郡西忍村(現飛騨市宮川町西忍)にあったという。益田衆は三木氏家臣団のことで、彼らが制圧した。...