名門県岐阜商が不祥事のため1年間の対外試合禁止となった1977年夏。岐阜大会の抽選会直後の出来事だったが、投打とも高い戦力を誇っただけに、誰もが惜しんだ。実際、同年の選抜は優勝した箕島(和歌山)に準々決勝で3―7で敗れたものの、箕島から唯一、得点した。1、2回戦で連続完封し、ベスト8の原動力となったエースの関谷弘美さん(65)=揖斐郡大野町=に秘話や思い出を聞いた。
2024年は、高校野球の聖地・甲子園球場が開場して100周年を迎えます。岐阜新聞デジタルで毎週木曜日に各年の感動を当時の紙面と主力選手インタビューで振り返る「甲子園100年ぎふ」を連載しています。

関谷弘美(せきや・ひろみ)1959年、真正町(現本巣市)生まれ。投手。明治大卒。岐阜県公立学校共済組合の事務職員となり、次長を務めた。ボーイズリーグの揖斐本巣の設立から携わり、監督を経て現在は名誉監督。県選抜の監督も長年務めた。
―前年の選抜も先発し、甲子園のマウンドに立たれたんですね。
関谷 エースの市川昌宏さんがけがをされ、1回戦東洋大姫路(兵庫)との試合当日の朝、先発だと監督だった小川信幸先生に伝えられました。すごく、緊張したのを覚えています。
2アウト満塁、フルカウントで投げたストライクだと思った球が、判定はボール。押し出しになり、次打者に二塁打を打たれ、初回に4失点し、4―7で負けた。
相手先発の速球派左腕の松本正志さん(元阪急=現オリックス)、ショートの弓岡敬二郎さん(同)はじめいい選手がそろっていて、この大会でベスト4になり、翌年夏に優勝する強いチームだった。
―どんな投手でしたか。
関谷 元々、スリークオーターで、球は速かったがコントロールが今一つで、三振か四球かという投手だった。...