「書き手とか作り手って業が深いことだよねえ」と、名古屋・大須のいつものカフェ、ロジウラのマタハリのママのりりこさんは言った。わたしはいつものゆず茶を飲みながら、無言でうなずいて、そして何も言えなかった。
ロジウラのマタハリは以前は名古屋駅西にあったカフェ。そこに通い出したのもこれで15年ちょっとになるだろうか。大学卒業の時も、結婚した時も、離婚を決めた時も、そして一人の新しい住まいを決めた時も、専業で歌人人生を歩むことを決めた時も、楽しい時も辛(つら)い時も変化の時もずっと、ここでゆず茶を飲みながらりりこさんとおしゃべりをして、はっと気がついたり、何かを決めたり、を続けてきたのだった。その気がつくことも決めることも、半分は創作や仕事のこと。この15年、わたしはお客さんながら、物書きとしてこのカウンターに座ってきたのだった。

どんな15年だったっけ、と思い出そうとするけれど実は難しい。わたしは創作の苦しみとは無縁で、それよりは恋愛や家族、生活、仕事のための身の振り方や新しい興味に忙しくて、「どうやってそれを書こうか」「どこに発表しようか」とは迷うけれど「何を書けばいいかわからない」と悩んだことはほぼほぼない。それで起きたことはほぼ書いてしまっているから、もはやそれはわたしの人生というよりわたしの作品で、自分のことながら自分の人生に言及することが難しいのだ。
三品鐘さんはそんな私の生き方を「ワークライフバランスではなくてワークアズライフですよ」と笑う。ワークアズライフ、仕事のための人生。そんなふうに思ったことはないけれど、書いた途端、私の苦しみも痛みも生々しすぎる感情も、ふっと手を離れて誰かと共有可能になる。それがどういう「業」なのか、実は考えたことがない。書くことの意味は? と問われても、考えたことがない、というのが正直な感慨だ。気がつくとパソコンを開いている。そのことに意味はなくて、ずっとこうして続いていくのだろう。
りりこさんが作るゆず茶が、ほんの少しだけれど、濃くなった気がする。でもそんな訳はない。私の味覚が変わっただけの話だ。私の書くものも、ほんの少し角が取れた気がする。日々日々日々のわずかな変化。でもずっとこうして続いていくんだろう。
岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。
のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。