北川英治監督第3回は、指導者としての歩み、大きな転機となった名将阪口慶三監督との出会いについて聞いた。

―教員になって指導者としてのスタートは、2年目に夏の岐阜大会で準優勝した長良高校だった。どういう感じで指導されていましたか。
北川 年齢が生徒と近かったので、大学の先輩と後輩という距離感で、学生のような調子で指導していたため、教員・監督という一人の大人としての指導が行き届かず、多くの方から生徒の「試合中の所作が横着だ」「マナーが悪い」とお叱(しか)りを受け、学校にも苦情の電話が何本か入った。
長良高校で準優勝したチームは足立圭という長身左腕の好投手がいたため、県外の強豪校との練習試合を重ね、本気で甲子園を狙える意識をチームとして高めていったが、負けず嫌いで、気が強いうえにムラがある選手が多かった。信じられないような劇的な逆転勝ちで決勝へ進む一方で、これじゃいけないなと思う自分もいた。いろいろな方々から応援していただけるようなチームをつくらなければ。それが生活指導も含め野球の取り組み方への厳しい指導の始まりだった。

準優勝は今から思えば、監督である自分があの程度の野球の知識でよく勝てたなと思う。それだけ当時の選手に底力があり、試合の集中力も含めて本当によく頑張ってくれた結果だった。しかし、私はそれなりに練習すれば勝てるんだと勘違いしてしまった。なめてしまったというか、30歳になるまでには甲子園に行けそうだなと勝手に思ってしまったし、本当に甘かった。もっと指導力を身に付け、野球を謙虚に追求して知識を深めていかないとダメだと考えるようになった。
以降、負けて分析する時に、野球のこの細部がわかっていなかった、もっとこういう練習をすべきだったと突き詰めていった。負けて学ぶことは、すごく多いなと思った。それを毎年、毎年自分の経験値にアップデートしてきた。それだけに一方では、監督経験値のある人にはなかなか勝てないなという思いは強くなった。
―そういう意味では大垣日大の阪口慶三前監督との出会い、対戦はやはり大きかったですか。
北川 関商工に転勤して4年目の2007年、夏の岐阜大会準決勝で選抜甲子園で準優勝した森田貴之投手の大垣日大に2―3で負けた試合は、大きな転機になった。あの時はめちゃくちゃ分析した。準決勝前日に練習もしないで長時間のビデオミーティングを行い、各打者の対策、森田君攻略法、機動力封じ、自チームの得点方法などあらゆる策を立てた。打者の弱点、どこにどのようなボールを投げれば、どこに打球が飛ぶかまで予測し、各守備位置のポジショニングを徹底した。

惜しくも負けたが、ヒットは3本しか打たれなかったし、阪口先生の代名詞であるスクイズや盗塁、エンドランは一切なかった。狙ったところに投げられる多田将季というサイドスローピッチャーが成長してくれたことも大きかったが、自分の中で手応えをつかんだ試合だった。
負けた1点の差は監督の差だと強く思った。けん制の暴投だったり、攻撃での挟殺プレーで走者にボールが当たったのによく確認せずに本塁に走ってアウトになり、点を取り切れなかったりしたのが敗因。阪口先生の野球を徹底的に分析したことが、自分の戦略、戦術を格段にレベルアップさせてくれたと思う。
―阪口野球とは。
北川 阪口先生に「カウントはどのタイミングで動くんですか」とよく質問される人がいるが、そうではなく、阪口先生は...