「ぎふ高校野球・名将流儀」2人目は、詳細なデータ分析に基づく戦略・戦術を駆使し、弱者が強者に勝つ野球を追求してきた北川英治さん(53)。新任2年目で長良を岐阜大会準優勝に導き、関商工では2011夏に甲子園出場、日本最古の野球部である名門の母校・岐阜高校の再建にも尽力した名将に指導者としての歩み、独特な戦略・戦術、人材育成、組織づくり、さらに岐阜県高校野球のための新たな挑戦などを聞いた。1回目は「北川野球の原点・上」。

データ分析に基づく戦略・戦術を駆使した“北川野球”の原点を語る北川英治さん=岐阜高校
 北川英治(きたがわ・えいじ) 1971年、各務原市生まれ。岐阜高で内野手、3年時に主将。慶応大に進み、岐阜高の先輩・後藤寿彦監督の下、東京六大学で活躍した。岐阜県で教員となり、高校野球指導者に。赴任2年目の1998年、長良を岐阜大会準優勝に導く。関商工に転任し、2011年に同校初の全国選手権出場を果たす。1回戦で如水館(広島)に延長13回の激戦の末、2―3でサヨナラ負け。翌12年も岐阜大会決勝に進んだが県岐阜商に1―2で惜敗。14年に母校の岐阜高校監督に就任し、日本最古の野球部である伝統校の再建に尽力し、24年に退任。県高校野球のレベルアップに精力的に活動。若手指導者の勉強会を長年開き、現在、岐阜県野球協議会傘下で、中学生対象の岐阜ジュニアベースボールアカデミーを主催し、底辺拡大に取り組む。

 ―野球との出会いは。

 北川 私は、4人男兄弟の3番目だったが、五つ上の2番目の兄が少年団で野球をしていて、保育園の頃からボール遊び程度だったが、よく野球に親しんでいた。自宅からすぐ近くの小学校の校庭を、自分の家の庭のようにしてほぼ毎日野球遊びをしていた。

 私はまだチームには入っていなかったが、兄のチームに帯同して、ベンチに座らせてもらい、声を出したりしていた。当時はちばあきおさんの「キャプテン」という漫画が流行していた時代で、泣きながら至近距離のノックも経験した(笑)が、すごく野球にのめり込んでいった。

 各務原市の蘇原第一小4年から正式に少年団に入団し野球に打ち込んだが、チームが強く市大会はほぼすべて優勝していて6年生の最後の県大会も優勝したが、準優勝は蘇原第二小。その二つの小学校が蘇原中で一緒になるので、中学の軟式野球部も当然強かった。

 2年生から試合に出場させてもらっていた。ポジションは、ショートやセカンドだったが、3年生ではキャプテンでサードだった。

 ―岐阜高校はずっと憧れて入学したんですか。

 北川 父親には野球経験がなく岐阜高校OBでもなかったが、私がそれなりに勉強もできていたので岐阜高校で野球をしてほしいという気持ちを持っていたように思う。県営球場で岐阜高校の試合もよく観戦していたので、「岐阜高校で野球をやる」という目標意識はあった。

 中学3年時、県内のみならず愛知の私学からの勧誘も数校あったらしいが一切教えてもらえず、受験でなんとか岐阜高校に合格できた。1978(昭和53)年の甲子園の選抜大会をテレビで見た記憶はあったが、岐阜高校硬式野球部が日本屈指の伝統校であることを入学してから知ったくらいだった。

 ただ、岐阜高校には中学時代に対戦経験がある本荘中学出身の勝野真三朗さんという、1学年上に素晴らしいピッチャーがいることは知っていたので、ここなら県岐阜商に勝てるかもという思いはあった。...