合戦などで亡くなった武将、兵士たちを弔った碑や塚が岐阜県内各地にある。確かな史実に基づいて築かれたものから「なぜここに?」という歴史ロマンにあふれるものまでさまざま。建てた人たちの思いにも想像を巡らせながら、墓標の“秘(ヒ)ストリー”を追う。
「戦死六萬墓(まんぼ)」―。山県市大桑(おおが)地区の山あいに、静かにたたずむ石碑。6万という数字が、壮絶な事態を連想させる。碑には経文のような文言と「天文十一 仲秋(1542年8月)二十三日」という日付も刻まれている。
「この一帯で斎藤道三と土岐氏の大きな戦があり、その犠牲者の骨がこの辺りに埋められたとされる」。郷土史家で山県市文化財審議委員長の西村覺良(かくりょう)さん(80)が、地元に伝わるいわれを解説してくれた。
100メートルほど西には「四国堀」と呼ばれる土塁と空堀の跡が残る。一帯は、室町末期の守護土岐頼芸(よりのり)が本拠とした大桑城の“お膝元”。後方には、城があった標高400メートル超の古城山がそびえ、山から続く狭い谷筋の入り口をふさぐように堀が築かれている。
「四国堀は大桑城下との境界で、六万墓のある場所はそのすぐ外側に当たる。城を巡る攻防の最前線になったエリアだろう」と西村さん。
美濃で台頭してきた道三は天文11年、守護の土岐氏に「国盗(と)り」の戦を仕掛けた。美濃国諸旧記を基にした高富町史によると、道三軍は「兵1万余人を催し/大桑の城に押し寄せ/命を軽んじ攻め立てける」。土岐氏側は不意を打たれ大混乱。周辺から家臣らが駆け付けて「勇戦」し、和睦に持ち込んだという。5年後に再び両者の間に戦が起こり、城は陥落。書物によっては、天文11年の戦いで落城したとする説もある。
六万墓は、その戦で犠牲となった6万の骨が集められ、地元の南泉寺の和尚が焼香したとされる場所に立つ。西村さんは「数字に根拠はないが、とにかくすごい数だったということ。いかに激しい戦いだったか」と語る。
道三の「国盗り」の波にのまれた大桑地区。地元では、時代を超えて犠牲者たちを悼んできた。慰霊碑は六万墓だけではなく、250回忌を迎えた江戸期の「寛政三(1791)亥(い)年」に、当時の村人たちが建立したとされる「戦死墓」(通称・千人塚)も存在する。六万墓では、今も毎年8月に供養祭が開かれ、地元住民らが、かつてこの地を治めた土岐氏の興亡に思いをはせている。
アクセス:山県市役所から車で約10分
バス路線沿いに看板あり
見つけやすい
概要:巨岩、高さ約1.8メートル
【大桑城】 山県市の古城山(407.5メートル)にあった山城。1535年ごろ、長良川の大洪水で被害を受けた枝広館(現岐阜市の長良公園付近)に代わる新たな守護所として、土岐頼芸が整備したと伝わる。40年代に家臣の斎藤道三との大規模な戦により落城。頼芸は美濃国外に追放された。
近年の調査で、巨石を使った門や曲輪(くるわ)群のほか庭園とみられる遺構など、往時の土岐氏の権威や文化力の高さを示す痕跡が次々と見つかっている。